ボディビルとは?(定義と歴史)
<ボデイビルの定義>
 広辞苑で調べると「ボデイビルディング(BODYBULUDING)の略でバーベルやダンベル、エキスパンダーなどを使用して逞しい筋肉を作ること」と定義されています。 単に走ったり泳いで筋肉を作るのでなく、科学的な手段で筋肉を刺激し、次第に大きく発達させる技術がボディビルです。 最近はさまざまに工夫された専用マシーンで筋肉を刺激し、大きく発達させる方法が主流になっております。
 「ウエイトトレーニング」「レジスタンストレーニング」「筋力トレーニング(筋トレ)」など、現在はさまざまな名称が使われていますが、これらのルーツがボデイビルであることは言うまでもありません。

<ボデイビルの歴史>
 「筋肉を鍛え、たくましい身体を作る」という概念は古代ギリシャ時代から始まっています。 古代オリンピックの祭典で第61回から66回までレスリング競技に連続優勝したクロトナのミロ青年は、幼い少年時代から仔牛を肩にかついで毎日1キロの道を歩きました。 仔牛の成長は早く、1年、2年と経つにつれ親牛になりましたが、ミロはなおも同じ牛をかついだので、数年後には人々が驚くほど筋肉隆々たる青年になったと、記録に残されています。
 キリスト教の精神至上主義のために、肉体を鍛練したり、スポーツ競技をすることは長らく無視されていましたが、19世紀末にフランスのクーベルタン男爵が「オリンピック競技を世界的な規模で復活しよう」と呼びかけ、1896年に第一回近代オリンピック競技がギリシャのアテネで開催されました。 これに呼応したごとく、ユージン・サンドーというドイツ人医師が1897年に「筋力とその強化法」という書籍を出版し、バーベルやダンベルを用いて筋肉を大きく発達させる方法を普及させました。 裕福な家庭に育った彼は少年時代に家族とギリシャを旅行し、博物館に陳列されていた逞しい肉体に強い衝撃を受け、解剖学などを一心に研究し、自ら立派な筋肉を作り上げ(身長172cm・体重85kg)、並みいる力自慢の男たちを打ち負かせたと言われます。
 彼の科学的なトレーニング方法は世界に知られ、鍛えた身体の見事さを競うコンテストも1898年に重量挙げ競技と併せてイギリス・ロンドンで開催されています。

<世界組織としてのIFBB>
 20世紀になり、2回も大戦をするようになって、どの国の軍隊も兵士の肉体鍛練法としてボディビルを奨励しました。 実際に戦後すぐの日本でもアメリカの兵士たちがキャンパスでしきりに筋肉を鍛えておりました。 カナダでベン・ウイダー氏が「いちはやく組織を作り、公式大会を開催しよう」と志し、第一回世界大会を1947年に実現させました。 この大会は何年かの中断がありましたが、現在のIFBB(International Federation BodyBulding)として継続され、2003年現在加盟国は200を超えています。
 本年10月にカリフォルニア州知事に選ばれたアーノルド・シュワルツェネガーもIFBBのチャンピオンを連続7回もとったことはあまりにも有名です。

<日本におけるボディビルとJBBF>
 戦前の日本でも若木竹丸氏という人が「怪力法」という本を出版し、自ら鍛えた筋肉美と力の凄さを披露していましたが、「ボデイビル」という言葉と共に人気を博したのは昭和30年からです。 当時は日本ウエイトリフティング協会が開催した重量挙げ競技大会の際、ボディコンテストが行なわれ、早稲田大学の学生だった窪田登さん(後に早稲田大学教授になられ、多くの著書を発行され、日本のボディビルやウエイトトレーニング普及に大きく貢献された)が優勝されました。その写真が昭和30年9月7日号の「週刊読売」グラビアに大きく紹介され、当時始まったばかりのテレビでプロレスが大人気になったことと合わせて第一次ボディビルブームが到来しました。 折からの「マネービル」という証券会社のCMとともに「ボディビル」は完全に市民権を得たのです。また作家の三島由紀夫さんが現在のJBBF玉利齊会長の指導で、みるみる肉体改造に成功し、マスコミがこぞって報道しました。まだ早稲田大学の学生だった玉利会長は「ボディビルを広く国民に普及させる必要がある」と感じ、当時の厚生大臣川崎秀二氏に働きかけ、その協力のもとに「日本ボデイビル協会」として昭和30年10月に発足させました。
 次の年の昭和31年に「第一回ミスター日本ボディビルコンテスト」が厚生省・文部省・東京都などの後援で神田共立講堂で開催されて以来、何人もの優秀なチャンピオンたちが登場しました。 東大教授として体育理論の第一人者である石井直方先生、マラソンの宗兄弟、野球のイチロー選手などの指導で有名な小山裕史さん、14回も優勝し、今もなお現役選手である小沼敏雄さんなど多くの成功者が生まれています。 また鍛えた体力を活かして実業界や政界で活躍している元ボディビルダーも多くおります。また指導者として体力のない人の役に立ったり、スポーツ選手を育成している人は枚挙がないほど多いのです。

<ボデイビル競技とは?>
 競技としてのボディビルは、日頃のきびしいトレーニングで鍛え上げた全身の筋肉の発達度、そのダイナミックさ、美しさ、またバランスなどを競い合う個人スポーツです。
 競技方法はエントリーした選手の中から予選審査(プレジャッジ)で10〜12名を選び、通過した選手で比較審査を行ない、あらかたの順位を定めます。
 審査される選手は司会者の指示で規定の7ポーズ(女子は5ポーズ)をとります。→イラスト参照。また5〜7人一組で音楽に合わせ、フリーポーズも行ないます。
 大会出場選手の数によりますが、予選審査の前半では上位に進む選手をピックフップする目的で選手が複数で呼ばれ、比較を行ないます。 あくまでも上位の順位づけではありません。 呼ばれない場合、筋肉の発達が目立ち申し分がない時と逆に勝ち目が明らかにない時があるわけです。
 プレジャッジの後半で初めて、上位の選手同士が審査員によってきびしく正確に判定されます。審査基準は筋肉の大きさ(バルク)と形と明白さ(カット)、鮮明さ(デフィニション)、バランス(上下などの均斉)、ポーズの流れ、表現法などによります。 体脂肪が多い選手は筋肉のカットが出ないため評価が低くなります。 かなりの減量が要求されます。また皮膚の黒さも影響しますが、今後地方大会やブロック大会ではカラーやオイルの使用が禁止されます。
 決勝審査にはプレジャッジで選出された10〜12名の上位選手が個人ごとにフリーポーズをとることで決定されます。
 審査員はジャッジテストをパスした7名または9名で構成され、各審査員の順位を合計することで順位が決定します。選手が順位に対し抗議したりすることは認められていません。 また、審査員の指名で選手はドーピング検査を受けることが義務づけられています。

JBBFの歴史
<1955年>現在のJBBF発足
 日本国民の健康増進と体位向上を目的として12月9日に日本ボディビル協会として設立。当時加盟クラブは東京を中心に20にも満たなかった。
会   長   川 崎 秀 二(当時厚生大臣)
副 会 長   水 町 四 郎(医学博士)・田鶴浜 弘(雑誌編集長)
理 事 長   平 松 俊 男(早大レスリング部コーチ)
常任理事  玉 利   齊(早大バーベルクラブ主将)・人 見 太 郎(大学職員)・小 藤 清 巳(出版社社長)
        遠 藤 英 夫(報知新聞記者)・鈴 木 智 雄
北 泉   恵・菊 池 宣 次
 1956年1月14日、神田共立講堂において「第一回ミスター日本ボディビルコンテスト」を文部省・厚生省・東京都などの後援で盛大に開催。初代のミスター日本に弱冠19才の中大路和彦選手(電源開発勤務)が選ばれた。 テレビ、新聞、雑誌などが多数とりあげて、将来の発展に希望の持てるスタートとなった。この大会は現在まで毎年継続して開催されている。

<1965年>関西と統合
 関東を中心としていた日本ボディビル協会と関西を中心としていた全日本ボデイビル協会(松山巌氏ら)が大同団結し、名実ともに日本唯一の全国組織となり、各都道府県に県協会が設立された。 また機関誌「強く逞しく」や「ボディビル白書」が発行された。
最高顧問  川 崎 秀 二(関東側)・中 村 広 三(関西側)
会   長   八 田 一 郎(参議院議員・日本アマチュアレスリング連盟会長)
理 事 長   玉 利   齊
 なおこの年からミスター日本コンテストは東京と大阪で開催することになった。この年にミスター日本になった田和昭之進選手がミスターアジア選手権に出場し、4位に入賞した。

<1966年>パワーリフティング競技の開始
 ボディビルの基本的トレーニング種目であるベンチプレスとスクワットによる記録挑戦会を開催。これ以降パワーリフティング大会として当協会が主催してきたが、世界パワー協会設立に伴い、1979年当協会が中心になって組織された「日本パワー協会」に移行した。

<1967年>初めて世界大会に選手派遣
 前年度ミスター日本の遠藤光男選手をIFBB世界選手権に当協会として初めて正式に派遣し、4位を獲得した。

<1968年>地方で初めてミスター日本開催
 地域の活性化と振興を目的とした行政サイドのイベントとして、滋賀県琵琶湖で開催された博覧会会場で、東京・大阪以外で初めてのミスター日本を開催し、大きな反響を得ることができた。 この14代優勝は東京の吉田 実選手であった。
 1967年度ミスター日本の小笹和俊選手がIFBB世界選手権に出場し、ショートマンクラスで2位を獲得した。

<1969年>身障者への筋力づくり指導開始
 障害者が参加するパラリンピックの種目に重量挙げとベンチプレスがあることから、玉利会長を中心とするチームで障害者のための体力増強トレーニングを指導し、たいへん感謝され、金メダルや銀メダル獲得に貢献した。

<1970年>NABBA世界選手権に派遣が決定
 この年よりNABBA(イギリスボデイビル協会)主催の世界選手権大会(開催地ロンドン)に前年度ミスター日本の上位入賞を派遣することに決定した。

<1971年>IFBBミスターワールドで武本選手2位に
 前年度ミスター日本優勝の武本蒼岳選手をIFBBのミスターワールド選手権に派遣し、2位を獲得した。

<1972年>公認指導員・公認審査員制度がスタート
 大阪の佐野委員長を中心に、ボデイビル普及にあたる指導者の養成と大会における審査が公正に行なわれる審査員の資質向上を目ざし、本格的な講習会が開催された。 またジャッジテストが導入され、今日まで続いている。

<1976年>NABBAで日本人選手が大活躍
 この年のNABBA世界選手権大会で大阪の杉田 茂選手がショートクラスと総合で優勝。 また三重県の須藤幸三選手がミドルクラス優勝と総合で2位、さらに埼玉県の榎本正司選手がミドルクラス4位になり、この快挙に世界が注目した。

<1982年>JBBFとなり、東京で男子アジア選手権大会開催
 日本ボデイビル連盟と改称し、三代目会長に玉利 斉氏が就任、国際ボデイビル連盟(IFBB)に正式加盟し、日本で初の国際イベントとして「第18回アジア・ボディビル選手権大会」を東京で開催した。

<1983年>女性の日本大会を開催
 玉利会長がIFBBの副会長に就任。女性ボディビルダーの増加により、「ミス日本コンテスト」(現在の女子日本選手権)を開催し、大成功を納めた。 優勝は京都の中尾和子さんだった。

<1986年>世界大会開催とドーピングテストの実施
 47カ国の選手・役員が参加した「第40回世界アマチュアボディビル選手権(ミスター・ユニバース)」を東京で開催し、大成功だった。この選手権大会でIFBBでは最初のドーピングテストを行なった。 IOCドーピング委員長の西ドイツ、M・ドニケ博士、IFBB医事委員長のB・ゴールドマン博士を迎え、日本側からは日本体育協会医事委員会委員長の黒田善雄博士、同スポーツ科学研究所の塚越克己所長およびIOC(およびJOC)指定分析機関である(株)三菱油化BCLなどの協力で実施されたが、今後の試金石ともなる重要課題とあってJBBFドーピングコントロール委員長の後藤紀久さんはじめ関係者の苦労は大変なものであった。

<1987年>世界女子アマチュア招待選手権開催
 第一回国際女子アマュア・ボディビル招待選手権を世界9カ国、20名の選手を招いて東京で開催した。

<1988年>
 第二回国際女子アマチュア・ボディビル招待選手権を世界8カ国、18名の選手を招いて東京で開催した。

<1989年>鳥取でアジア・ボデイビル選手権大会開催
 鳥取市の市政100周年記念行事の一つとして、鳥取市・鳥取県の後援のもと、第25回男子アジア・ボディビル選手権大会を開催し、地元の小山祐史さんはじめ多くの方々の尽力で成功を収めた。 また第3回国際女子アマチュア・ボディビル招待選手権を世界10カ国より18名の選手を招いて東京で開催した。
 なお、この年の全国総会で社団法人化することが決議された。

<1990年>ソ連選手との有効大会を開催
 第4回国際女子アマチュア・ボデイビル招待選手権を世界7カ国より18名の招いて東京で開催、同時にソ連より2名の役員、3名の選手を招待し、日本の上位5選手と日ソ対抗選手権を開催した。

<1991年>親善大会の開催
 大阪で開催された日本ボディビル選手権において、ドイツ・中国より役員、選手を招聘し、親善大会を開催した。

<1992年>文部省から社団法人として認定
 社団法人日本ボディビル連盟設立が1月7日文部省から許可された。玉利会長、鈴木光雄専務、大塚嘉幸事務局長はじめ多くの方々の尽力の結果であり、これにより各種補助金などが支給されやすくなった。 また、これを祝賀する意味で第9回女子アジア選手権・第6回アジア・ミックスドペア選手権・第3回アジア・オープン選手権大会を中野サンプラザで開催した。 この大会にアジア8カ国より67名の役員・選手(日本役員を除く)が参加し、盛大な大会になった。
 全国の加盟クラブ数は530にもなり、ボディビル選手権の出場選手ばかりでなく、相撲では小錦・霧島・寺尾など、柔道では斎藤選手・正木選手など、マラソンでは宗兄弟、ゴルフでは倉本選手など、多くのスポーツ選手の筋力トレーニングを指導し、すべてのスポーツの基礎体力づくりに欠かせないとの認識を得た。

<1993年>ワールドゲームズに初参加
 オランダ・ハーグで開催されたワールドゲームズに高西文利選手を派遣し、80kg級で6位に入賞した。またアジアボディビル連盟より玉利会長にABBF最高功労賞が贈られた。 またスペインで開催された世界マスターズ選手権80kg級で磯村俊夫選手が5位、朝生照雄選手が6位に入賞した。

<1994年>公認指導員認定制度が新しくスタート
 社団法人になったことにより、講習会の内容が充実し、1級と2級になった。全国からの受講者は160名で盛会のうちに終了した。男子および女子アジア選手権や世界選手権、また世界マスターズ選手権において日本代表選手が健闘した。
 なお、この年の1月15日から事務局が京橋から大久保のスポーツ会館内に移転した。

<1995年>文部大臣がボディビルを観戦
 東京で開催の日本選手権大会に当時の島村文部大臣が来賓として来られ、舞台で挨拶された。また当日のゲストがミスター・オリンピアで4連勝のドリアン・イエーツであったことから定員1500名の会場は超満員になった。海外派遣選手も上位入賞を果たした。

<1996年>女子アジア選手権・男子アジア選手権で堂々1位に
 社会人連盟の大会で「ミスフィットネス大会」が初めて開催され、今日まで続いている。マカオで開催の女子アジア選手権で上野結花選手と大垣純子選手がみごと優勝した。 またインドで開催の男子アジア選手権で谷野義弘選手が優勝、同時に「モースト・インプルーブド賞」を獲得した。

<1997年>ワールドゲームズでダブル優勝
 フィンランドのラハティで開催のワールドゲームズに出場した水間詠子選手、広田俊彦選手がともに1位を獲得し、マスコミなどに大きく紹介された。また韓国・ソウルで開催の男子アジア選手権で朝生照雄選手が優勝、さらに東京で開催の女子アジア選手権で浅見由里香、水間詠子、大垣純子、広田ゆみの4選手がそろって1位を獲得した。
 なお、この年に5名の選手に抜き打ちドーピング検査をしたが、全員陰性であった。

<1998年>大阪府知事がボディビル大会を観戦
 大阪で開催の日本選手権に当時大阪府知事として最高の人気だった横山ノック氏が来賓として来場。「自分も若い頃、難波トレーニングセンターでボディビルをしていた。 そのお陰で筋肉や体力で負けない」とスピーチされた。 海外では韓国・仁川で開催された女子アジア選手権で西本朱希選手が1位を獲得した。

<1999年>
 2001年に秋田市でワールドゲームズ開催が決定したことから、リハーサルの意味で日本クラス別大会を秋田市で開催。一般市民の来場も多く、大成功だった。 海外では台湾で開催の男子アジア選手権、マスターズ70kg超級で朝生照雄選手が優勝した。

<2000年>山口県ボデイビル連盟が県の体協に加盟
 2002年韓国・釜山で開催されるアジア・オリンピック大会にボディビルが競技種目として参加することに決まり、ボディビル界の熱意が高まった。また3月に福岡県小倉市指導員講習会が開催され、100名以上が熱心に講義を受けた。
 また、山口県ボディビル連盟が嶋岡理事長のなどの努力で県の体育協会加盟を申請し、目的を果たした。
 海外では香港で開催の男子アジア選手権で谷野義弘選手が75kg級で優勝した。


<2001年>秋田ワールドゲームズが大成功
 秋田で開催のワールドゲームズに世界の強豪が集結。優勝こそできなかったが、上位入賞選手が多く、また会場に観客が応援にかけつけ、ボディビルはもちろん、全体としても大成功だった。 海外では韓国・釜山で開催の男子アジア選手権で山岸秀匡選手が80kg級で優勝、またアジアミスフィットネス選手権の160cm級で山中輝世子選手が優勝した。

<2002年>アジア競技大会でボデイビルがメダル獲得
 はじめて他のスポーツ種目と並んで参加できた釜山のアジア・オリンピック競技で、ボディビルは広田俊彦選手が70kg級で、谷野義弘選手が75kg級で銀メダル、合戸孝二選手が70kg級で銅メダルに輝き、日本のメダル獲得数に貢献した。 また他のスポーツ競技選手やJOC役員からボデイビルが再認識された。またポルトガルで開催の世界マスターズ選手権40才カテゴリーの80kg級で小沼敏雄選手が優勝した。

JBBFの目的と事業
 1992年(平成4年)にJBBFは日本のボディビル活動を統括する社団法人として当時の文部省より正式認定を受けています。 その設立趣旨書を参考にしてJBBFの事業目的を簡単に紹介しておきます。
 JBBF(日本ボディビル連盟)は1955年(昭和30年)10月に「日本ボデイビル協会」の名称でボディビルの普及振興と共に、国民の健康増進と体位の向上を実現することを目的に設立されました。
 以来、民間におけるクラブスポーツの先がけとして数々の実践活動を行なってきました。JBBFの活動方向は大別して次の3つの分野になります。

(1)競技スポーツとしてのボディビル
 ボディビルの鍛練によって極限近くまで鍛えた筋肉と、それをいかに力強く、また美しく表現するかを競う「競技スポーツ」としての分野。
 生命力に溢れた人間の健やかな肉体の美しさをJBBFの公認審査員が決められたルールに基づいて、公正に入賞選手を選出します。 JBBFによる地方大会、全国大会の数は毎年50以上になっており、優秀なチャンピオンが誕生しています。 また全国大会で上位入賞の選手はアジア選手権大会や世界選手権大会に派遣され、毎年健闘しております。 さらに今後はプロ選手の養成に力を入れ、ボディビルの人気がますます増加するように期待しています。

(2)スポーツ選手全般の筋力トレーニング
 あらゆるスポーツ選手が基礎体力向上、筋肉増大・筋力強化を目的として、バーベルやダンベルなどによるフリーウエイト、あるいは各種最新マシーンによる「筋力トレーニング」を実行しています。当初は「筋肉が固くなる」「柔軟性や持久力が低下する」「心臓によくない」などと批判されたことがありましたが、現在のスポーツ医学の最前線でも「筋トレ」の効果が高く評価され、実施することにより勝利に結びつくことが常識になりつつあります。 マラソン、テニス、ゴルフなど一般的なスポーツにおいても筋肉鍛練の大切さは認識されています。JBBFから優秀な指導者が続出していることは言うまでもありません。

(3)健康増進としての筋力トレーニング
 国民が医療機関にかかる医療費は年間31兆円にも達し、国家全体の予算82兆円の3割以上になっています。とくに高齢者の増加が拍車をかけており、政府でも「健康日本21キャンペーン」によって元気な高齢者を増やす政策をとっています。 その手段として全国のボデイビルクラブで実施している筋肉養成プログラムがたいへん有効です。 下半身の筋肉、また骨盤内部にある大腰筋などを鍛えれば転倒して骨折する割合が低下します。
 「筋肉・骨・関節は使用しなければ衰える」というのは生理学としての定説です。適切な運動刺激により高齢者でも筋肉が発達し、機能が向上します。
 「健康管理、健康維持のために入会している」という会員の数が全国のスポーツクラブの9割以上を占めている実態からも、これに対応した指導の重要性が見えてきます。
《2003.11.11更新》


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